メメント・モリと生きる希望。

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メメント・モリと生きる希望。

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「メメント・モリ」という言葉をご存知でしょうか。

これは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句です。

私が初めてこの言葉を知ったのは高校生の頃で、藤原新也の写真集「メメント・モリ」のタイトルを見て知ったのが最初でした。

多感な頃の私に大きな影響を与えた作家はたくさん居ますが、この藤原新也もその一人です。特に、藤原新也の「メメント・モリ」や「印度放浪」、沢木耕太郎の「深夜特急」、三島由紀夫の「豊穣の海」などを読んだことで、死への興味がより深くなりました。

私がよく言う鉄板のネタにこんなのがあります。

「幼稚園の頃、母親に『おじいちゃんになって死ぬのが嫌だ』と言ったら、あんたまだ子どもやのに何を言ってる!って怒られた」って話です。

しかし、小さな頃から「死」を考えない時はありませんでした。幼かった頃の死への恐怖は、少しづつ「死生観」と言えるようなものに熟成されてきましたが、人生において最も興味があることは幼いことから、やはり「死」であることは間違いありません。

先日、元イエローマジックオーケストラ(YMO)の高橋幸宏が亡くなりました。

このコラムでも取り上げたことがあるように、中学一年生の時に熱中して以来、最も思い入れのあるアーティストだっただけに、その衝撃はとても大きいものでした。

正直まだちゃんと受け止めれていません。曲も去年の還暦ライブから全然聴かないようにしていましたし、最近もあまり考えないようにしています。

高橋幸宏は誤嚥性肺炎で亡くなったので、余命宣告は受けておらず、最後までライブ出演の望みを持っていたと思います。

が、最近ではがんなどになると、必ず余命宣告を受けるようです。

先日亡くなった同級生もFacebookに余命宣告を受けたことを投稿していました。

しかし、それはどうなんでしょうか。父が亡くなった二十年近く前は、医師は父には余命を知らせず、家族である私にだけ伝えていました。

「余命を知る自分」、そして「余命を知っていると知っている家族」はどんな気持ちなのでしょうか。

「自分がいつか必ず死ぬことを忘れない(メメントモリ)」と「自分がいつ死ぬか分かってること」は全く違うと思うのです。

大切なことは、いかに希望を持って生きられるか、ということだと思います。

常にそういられるよう頑張らねばですが、余命宣告は受けたくないですね。