見たいものしか見えていないし、 見えてるものしか見ていない。

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見たいものしか見えていないし、 見えてるものしか見ていない。

昔のコラムでこんなことを書いたことがありました。ある立ち飲み屋の話です。

その店は三ノ宮の高架下にある店で、もう何十年も前からある店でした。しかし、それまで立ち飲み屋に行ったこともなければ興味も無かった自分は、その店の存在に全く気付いていませんでした。毎日のように通っていた道にある店だったのにです。

ところが、初めて友人に立ち飲み屋に連れて行って貰ってから、すっかりはまってしまい、それから立ち飲み屋が気になって仕方なくなりました。すると、毎日通りながら全く気付かなかったその店の前に通り過ぎようとすると、今まで全く見えていなかったその店が、あたかも突然現れたかのようにまっすぐに目に飛び込んできたのです。

頭の中で、サザエさんの声でこんな言葉が聞こえてきました。「まぁ、なんていうことでしょう。」驚きでした。今までいったい何を見ていたんだろうと思いました。

要するに人は、全てを見ているようで、全てが見えているようで、結局は自分が見たいものしか、自分が興味のあることしか、自分の中に立っているアンテナに引っかかるものしか見ていないってことに気付いたのです。

昔、知人にこう聞かれたこともありました。「周りを見渡してみてください。はい見ましたね。赤いものは何がありましたか?」と。答えられませんでした。結局は何も見てなかったのです。

最近のコロナ騒ぎや政治の動きや世界情勢などを見ていると、特にそう思うことが多くなってきましたし、プラスして、既成概念に縛られているとも誘導されているなとも思います。また逆に見えてるものしか見てないなとも感じます。

いずれにしても、自分が見えているものが全てではないという気持ちでお相手と接してみるのも良いのではないしょうか。見え方が変わるかもしれませんよ。